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哲学に学ぶ

  • シュプレヒコール(RADWIMPS)の歌詞の意味を考察してみる

    おはようございます。mikioです。どうも。

    今回は、2012年にリリースされた、RADWIMPSのシュプレヒコールっていう曲を、考察してみます。

    勝手ながら、個人的に【シュプレヒコール】はRADWIMPS史上、最高傑作だと思っています。

    バンドのフロントマンである、野田洋次郎(敬称略)は、換喩(メトニミー)の使い方が秀逸なんですよね。

    換喩ってのは、比喩の一種です。

    所謂、「全米が泣いた」みたいな事です。

    その点、【白と黒とがやりあってる】っていう、抽象度上げまくりの表現は、見事だとしか言えない。

    これ、最近の話に置き換えると、捉え方によっては、白人と黒人の差別の歴史っていう切り取り方も可能ですよね。

    2020年5月末に、アメリカで起こったデモ運動と、どこかリンクする部分があります。

    6月頭くらいに、Twitterのタイムラインで、この動画が流れてきました。

    「何百年以上、何世代にも渡ってこのプロテストは続いている」とカーティス・ヘイズ・ジュニア(31歳)さんが語るように、何も変わらない差別の歴史がある。

    これ見てたら、電車の中で涙が止まらなくなってしまいました。

    それ以来、アメリカの歴史を調べる事に。

    その辺の話は、以下に音声として録ってみたので、併せてどうぞ。

    実は、今回の記事は、このアメリカでの黒人差別へのデモが、キッカケだったりします。

    アイヒマンか、スターリンか、どっちか定かではないんですが「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」って話をしている人がいました。

    これは的を得ています。

    差別問題が、スマホとSNSという媒体に乗って、パーソナルなところまで降りてきた映像があったからこそ、僕の感情は動きました。

    例えば、「今日1日の、コロナウィルスの感染者は数百人です」

    とか言われるより、その中の1人の物語に焦点を当てる方が、人の心は動くって事です。

    さて、本題に入ります。

    シュプレヒコールの「述語と主語がやりあってる」ってどういう意味?

    今日も世界のあちらこちらで

    述語と主語がやり合ってんだ

    文脈さえ通り越しちゃえば

    きっと平和の世界征服さ

    出典:シュプレヒコール

    RADWIMPS/野田洋次郎

    これはどういうことか?

    長いこと考えていました。

    述語と主語がやり合ってるっていうのは、それこそ【文脈の話】をしているって事だと思うんですよ。

    ここで言う文脈ってのは、「今日も世界のあちらこちらで」って言ってるように、地球上の人間、延いては生物の営み、そのものを指しています。

    例えば、なんでもいいんですけど

    • 荷物を持ち上げる
    • 扉を開ける
    • カレーを味わう
    • 天を仰ぐ
    • 貴重品を預ける(預かる)
    • 水を与える
    • 心を操る
    • 車を洗う
    • 虫が集まる
    • 本を売る(買う)

    みたいなことです。

    僕のイメージだと、誰が(主語)、どうした(述語)とか、何が(主語)、どうなった(述語)っていう、人間が捉えることのできる行動様式とか、様々な現象が浮かび上がってきます。

    地球上の歴史ってのは、これまで途絶えることなく、連続して繋がっています。

    この短いフレーズで、その【連続】の部分を、状況説明してるんだと思うんですよ。

    ただ、その後に、「白と黒とがやり合ってる」っていうフレーズが出てくるので、何回かシュプレヒコールの曲を聴いてると、述語と、主語が、衝突しているっていうイメージが強まってしまうかもしれません。

    ここでの「やり合ってる」っていうのは、人間の営みに対する情景描写であって、「ぶつかり合ってる」っていう、二項対立の話ではないんだと思ってます。

    「やりとりをしている」とか「行き交ってる」っていう、交錯したイメージを述語と主語っていう部品を使って、描いている。

    つまり、世界中で「言葉が飛び交ってる」っていう、ニュアンスの描写なんだと思うんですよね。

    で、文脈さえも通り越しちゃえばってのは、国境の壁を越えるってことなのか。

    文化の違いを超えるってことなのか。

    これまでの歴史の連続性が形作った、文脈を越えるってことなのか。

    いずれにしろ、【平和の世界征服】っていうフレーズから見ると、人種とか、文化とか、自分達を隔てている【違い】さえも飛び越える事ができたなら。

    ってことなんだろうな。

    野田洋次郎というソングライターは抽象度(目線)のチューニングが上手い

    そんな感じで、めちゃめちゃスケールのでかい話だし、目線は超メタなところにあります。

    野田洋次郎というソングライターは、マクロな視点が得意なんだなーと思います。

    神と仏のダイアローグを、まるで童話のようにコミカルに描いていたり。

    輪廻転生的な宗教観を使って、「前前前世から、来来来世にやってきました。うへへ。」っていう、大袈裟なまでの世界観にまで発展させてしまったり。

    時空をも超えてしまうくらいのスケール感なんだけど、実態は、月並みな恋愛の話だったりする訳で。

    冷静に見たら、「いや、そんなわけないじゃん」っていう、ナンセンスな批判をして終わってしまう話でもあるんだけれども。

    だって、彼氏・彼女からいきなり「前前前世から逢いに来たよ」とか言われたら、普通にヤバい奴じゃないですか。

    それが、【君の名は】というアニメーション映画と、そこに寄り添うように作られた【RADWIMPS】の楽曲っていう、2つの文脈に乗っかる事によって、得体の知れない感動に繋がっていくんだと思うんですよ。

    (実は、未だに【君の名は】という映画は見れてないのです。言ってることズレてたらごめん)

    音で表現されている【大衆】としてのノイズ

    ぐっちゃぐちゃの、ノイズの気持ち良さってのがあると思っています。

    それは、心境によっては「聴いてるのがツラい」っていう音色だったりします。

    うるさいのに、心地いいってのが、ノイズの不思議なところです。

    例えば、銀杏Boyzっていうバンドのノイズは、まさにそれに該当しますね。

    何故に、こんなビリビリとやかましい音なのに、爽やかなんだろうか。

    或いは、9mm Parabellum BulletDiscommunication(ディスコミュニケーション)とか。(2:50以降)

    文字通り、ギターを掻き鳴らしている部分です。

    THE NOVEMBERSのバースデイとかも、このイメージ。

    で、シュプレヒコールも、サビ前で、ギターがぐちゃぐちゃにやるんだけど、これが心地いい。

    今は地デジになって見られなくなったけど、アナログ放送で見れた、テレビの砂嵐(ホワイトノイズ)のようなノイズ感。

    雪崩のように暴力的で、カタルシスのように心地よく、崩壊した街のようにカオス。

    因みに、子宮の音もホワイトノイズだけど、実際は、低音の雷鳴みたいな音らしい。

    従って、ホワイトノイズってのは、人間にとっては馴染み深い音なのかもしれない。

    全然、憶えてないけど。

    さて、シュプレヒコールに於いては、このノイズが、【大衆】が作り出す【うねり】として表現されているように感じます。

    これが音楽の面白いところ。

    曲(ポップミュージック)の世界観ってのは、音に依存します。

    そして、音が言葉のバーチャルリアリティ(世界観)の輪郭を補完してくれるのです。

    歌詞ってのは、言葉だけでは成立しません。

    言葉と音が重なってこその、歌詞です。

    言葉の世界と、音楽の世界が、オーバーラップするから、臨場感と共に情景が映像化される。

    例えば、BUMP OF CHICKENのメーデーのリフって、めっちゃ潜ってません?

    アルペジオでも、オクターブでもない方の、全音符的な長い音符(俗に言う白玉)の、和音で「ジャーン」って、やってるやつ。

    あのコードの音色って、メーデーの文脈の中で鳴らされると、泳いでる感がすごいんですよね。

    光が届かない海の色のような、黒に近いネイビーっぽい情景が浮かびます。

    アルペジオが、水中の泡というか、宇宙の星というか、そういう映像になる。

    僕の頭の中に浮かぶイメージを言語化しようとすると、こんな感じになります。

    隠しトラックに「星のアルペジオ」っていう曲があるけど、藤原基央(敬称略)のアルペジオって、ホントに【星】っぽいんですよね。

    宇宙感がすごい。

    冷たい声の合唱に 希望の度を越えた歓声に

    もみくしゃになったまま 走らせた今日を

    右向け右の号令に 正気を失った万歳に

    しわくちゃになったまま 明日を迎えにいくよ

    出典:シュプレヒコール

    RADWIMPS/野田洋次郎